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教皇フランシスコ 使徒的勧告「愛のよろこび」【要約】#1,2

第1章 みことばの光に照らして (4月)

 

8.聖書は、アダムとエバの家庭が登場する最初のページから始まり、暴力と、受け継がれていくいのちの強さで彩られ、花嫁と小羊の婚姻が現れる最後のページまで、家庭、世代、愛の物語や家庭の危機の物語にあふれています。

11.愛し合い、いのちを生む夫婦は、生きた真の「像」であり、創造主であり救世主である神の表現となりえます。それゆえ、豊かに実る愛は、神の内奥の現実のしるしとなりうるのです。

15.新約聖書の中で、「家に集まる教会」のことが語られているのをわたしたちは知っています。どこかの家庭の生活空間が、家庭の教会、聖体の座、同じ食卓に着いているキリストの現存の場になりえたのです。

16.聖書は、家庭が子女の信仰教育の場でもあると考えています。家庭は、親がその子どもの信仰の最初の教師となる場なのです。

18.福音書はまた、子どもは家庭の所有物ではなく、彼らの行く手には独自の人生の歩みがあることを思い出させます。イエスはこの世での両親に従うことで、親への従順の模範となっているのは事実ですが、子どもの人生の選択とその子自身のキリスト者としての 召命は、神の国に身をささげるために別離を要求しうることをイエスが示しておられるもまた確かなことです。

22.神のことばは抽象的な命題の羅列ではなく、危機にあったり何らかの苦しい時期を過ごしたりしている家庭の旅路に寄り添うもので、神が「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」時という、彼らの旅の目的地を示してくれるのです。

27.キリストは、とくに、愛のおきてと他者のための自己犠牲をご自分の弟子たちの明白なしるしとし、父親や母親が自らの生活の中でつねづね示している原則を用いて、それを示しました。

29.信仰と愛、恵みと責任、人間の家族と神の三位一体についての眺めをもって、家庭をじっくりと見ることにしましょう。家庭は、御父と御子と聖霊の結びつきの似姿である人格の交わりを形成するために、神のことばが夫と妻と子どもたちの手にゆだねたものです。生殖と教育の活動は、父の創造のわざを映すものです。愛をはぐくみ、聖霊の住む神殿になれるよう回心するために、家庭は、日々の祈り、神のことばの読書、聖体拝領、これらをともにするよう招かれています。

30.家庭はマリアのように、悲しい時も楽しい時も、勇気と落ち着いた心をもって自分たち家族の課題に向き合い、神の不思議なわざを心に留め、静かに味わうよう招かれています。

第2章 家族の現実と課題 1(5月)

 

32.幅の広い自由度、負担、責任、仕事の分担、夫婦の間の生き生きとした人格的交流によって、家族の共同生活全体が人間らしいものになっています。

33.他方、極度の個人主義は、家族のきずなを変質させ、また家族の構成員をそれぞれ孤島のように捉えるに至ります。たとえば、決められたとおりに行動することよりも、本心に沿った独自性が評価されます。それは、さまざまな能力や自発性を促進しうる価値ではありますが、よくない方向に向かうと、つねに疑い深く、するべきことを避け、安逸のうちに閉じこもる、傲慢な態度を生み出すこともあります。

34.こうした危険が家族をもとうとする態度に及ぶと、家族とは、自分にとって都合がよいを思えるときに向かう経由地、あるいは、家族のきずなを変わりやすくて安定な欲求や状況次第にしておきながら、権利だけは主張していい場所であると考えるようになってしまいます。

35.責任と寛容ある努力とが、いっそう求められているのです。神が与えてくださる恵みに進んで答えることができるような、結婚と家庭をもつことを選ぶ理由と動議を提示することが求められているのです。

39.物や環境とのつながりで起きていることが、愛情関係に転移しています。何でもポイポイと、各自が、使っては捨て、浪費しては破り捨てて、酷使しては使えるかぎり搾り取るのです。そして最後はさようならです。ナルシシズムは人に、自分自身以外のものを、自分の望みや必要以上のものを見えなくさせるのです。けれども初めに他人を利用する者は、同じ論理によって自分も利用され、管理され、捨てられる結果になります。

41.夫婦の危機は家庭を不安定し、別居や離婚によって、大人、子ども、そして社会全体に深刻な影響を及ぼし、個人や社会のきずなを弱体化させているのです。夫婦の危機はしばしばさっさと解決しようとして、忍耐し、確認し、ゆるし合い、和解し、自らを犠牲にする、そうした意気込み なしに扱われます。

46.移民に寄り添うにあたって必要なのは、移民している家庭への特別の司牧配慮ですが、それだけではなく、彼らが元いた地にとどまっている 家族にも配慮することです。これは、彼らの文化と、それを生み出した宗教的・人間的土壌、その儀式や伝統の霊的な豊かさ、これらに敬意を示しつつ、特別な司牧的配慮をもって実現すべきです。

47.教父たちが特別な注意を払ったのは、「障害者のいる家庭です。障害によって生活全体に及ぶハンディキャップが、家庭に厄介で想定できない課題をもたらし、安定、望み、期待を覆します。障害児の険しい試練を愛をもって受け入れる家庭は、大いに称賛に値します。それらの家庭は、教会と社会に、いのちのたまものに対する忠実さという貴重なあかしを示しています。家庭は、キリスト教共同体とともに、喜んで受け入れる歩みと、弱さの神秘を大切にすることで、新しい行動とことば、理解やアイデンティティのかたちを、見いだせるはずです。障害のある人は家庭にとって、愛をもって、相互に助け合いつつ、一つになって、成長するための機会を与えてくれるたまものを担っているのです。信仰のまなざしで障害者の存在を受け止める家庭は、あらゆる生のあり方の質と価値と、その必要と、その権利と機会を知り、保護することができるでしょう。そうした家庭は、奉仕と配慮を促進し、人生のあらゆる局面で、同伴し愛情をもって接するよう駆り立てるのです。

第2章 家族の現実と課題 2(6月)

                                                                               

48.大抵の家庭は、高齢者を尊び、愛情をもって彼らを囲み、彼らを祝福とみなしています。 高度に産業化された社会においては、出生率が 低下する一方で高齢者の数は増加傾向にあり、 高齢者たちはお荷物のように見られる危険があります。他方、彼らが必要とする介護は、彼らの愛する者たちにとってしばしば大きな負担となるのです。人生の最後段階の質の向上は、今日、あらゆる手段で死を先延ばししようとする中で、ますます不可欠になっています。弱っていて介護を必要とする高齢者は、時として、経済的利益のためだけに不正に搾取されます。多くの家庭がわたしたちに伝えているのは、人生全体での達成感と充足感を過越の神秘において強調することによって、人生の最後段階に向き合うことができるということです。

 49.非常に貧しい家庭の困難はいっそうひどくなります。もっとも困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません。それでは、神のいつくしみをもたらすよう召されている実の母に、断罪され見放されたと彼らに 感じさせてしまいます。

50.教育は困難に直面しています。ほかにも 理由はありますが、親たちは疲れ切って家に  帰り、話をする気力もなく、多くの家庭では食事をともにする習慣もなくなり、テレビ以外にも、実に多様な気晴らしの手段が増えているからです。こうしたことが、親から子への信仰の伝達を困難にしています。

 51.わたしたちの時代の傷の一つである薬物依存も指摘されています。それが多くの家庭を苦しめ、破壊してしまうこともまれではありません。同じようなことは、アルコール依存やギャンブルその他の依存によっても起こります。また、家庭内暴力は、基本的な人間関係における恨みや憎しみを覚える場となってしまいます。

 53.権威主義的な、さらには強制的な性格を もった「伝統的」家庭の古い形態を退けることは妥当であり正当なことですが、それによって結婚が軽視されるようになるのではなく、むしろその真の意味を再発見してその刷新へとつながって いくべきです。

第3章 イエスを見つめてー家庭の召命1 (7月)

 

58.家庭に対して、そして家庭の中で、つねに新たに響かせなければならない最初の呼びかけ、それはすなわち、「もっとも美しいもの、もっとも偉大なもの、もっとも魅力的でもっとも必要なもの」で、「福音化のためのあらゆる努力の中心を占めるはずのものです」。

61.結婚は主の「たまもの」です。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。このような神のたまものは性的関係をも含んでいます。「互いに相手を拒んではいけません。

63.創造において始められ、救いの歴史において啓示を受けています。結婚と家庭は、神の愛をあかしし、交わりのいのちを生きるために必要な恵みを、教会を通してキリストから授かります。

66.家庭でのわたしたちの生き方を理解しましょう。ナザレがわたしたちに家庭とは何かということを思い起こさせ、愛の交わりとは何かということ、その飾らない素朴な美しさ、その神聖で 侵すことのできない性質を思い起こさせますように。家庭にはなんと甘美でかけがえのない教育があるかをわたしたちに見せてくれ、社会秩序に おける家庭の本姓としての働きを教えてくれますように。

71.イエスは、すべてのものをご自分において和解させ、人間を罪から解放し、結婚と家庭を その原初の姿に回復させただけでなく、結婚を 教会に対するご自分の愛の秘跡のしるしに高められました。キリストによって結ばれた家庭の中に、すべての真の愛がほとばしり出る神秘、三位一体の「かたどり、似姿」が回復されたのです。

72.結婚の秘跡は、社会的取り決めや形式的な儀式や約束のうわべのしるしではありません。 この秘跡は、夫婦の聖化と救いのためのたまものです。結婚は一つの召命です。なぜなら、不完全ながらも、キリストと教会の愛のしるしとして 夫婦の愛を生きるようにとの、特別な招きに対するこたえだからです。

74.夫婦は、生じてくる課題に立ち向かう力をもち、決して孤独にはなりません。神のたまものに、熱意と、創意と、忍耐と、日々の苦労を  もってこたえるよう招かれています。ですが彼らは、状況が変わるたびに、受けた恵みがあらためて示されるようにと、自分たちの結びつきを聖化してくださった聖霊をいつも呼び求めることができます。

第3章 イエスを見つめてー家庭の召命2 (8月)

83.人間のいのちはあまりに偉大であり、母の胎内で育つ罪のない子どものいのちの権利は決して他に譲りえないものであるので、自分のからだに関する権利だとして、胎内のいのちについてもろもろの決定をする可能性を示すことなど決してできないのです。いのちはそれ自体が目的であり、他の人間の支配の対象となることはけしてありえないのです。家庭はいのちをそのあらゆる局面において、その晩年においても保護します。したがって、「医療機関で働く人に良心的拒否に従う倫理的義務を思い起こさせます。同様に、教会は過剰な医療処置や安楽死を避け、自然死の権利を主張する緊急性を感じているだけではなく、断固として死刑を排除します。

85.親は自分の子どもを教育することで教会を建て、またそうすることは、神が自分たちに示した召命を受け入れることだからです。

86.家庭は忍耐力、仕事の喜び、兄弟愛、寛容で幾度も繰り返されるゆるし合い、そしてとくに、祈りや自分のいのちをささげることによる敬神を学びます。

88.愛による結びつきをもって夫婦は、父であること、母であることのすばらしさを体験します。計画や苦労、願いや心配事を共有し、互いへの気配りとゆるし合うことを学びます。この愛をもって彼らは幸せな時を喜び合い、その人生の困難な旅路で支え合うのです。相互の無償の与え合いの美しさ、生まれてくるいのちゆえの喜び、年少者から高齢者に至るすべての家族へ愛情豊かな配慮、それらは、固有でかけがえのない応答をもって家庭の召命にことえた、その実りの一部です。教会にとっても、社会全体にとってもそうなのです。

第4章 結婚における愛 1(9月)

89.結婚の秘跡の恵みは何よりも、「夫婦の愛を完成する」ことに向けられています。

90.聖パウロの愛の賛歌「愛は忍耐強い。愛は清け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(1コリント13・4-7)は、夫婦二人で、また子どもたちとともに日々過ごす生活の中で、経験され深められます。

忍耐強い 

92.「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、いっさいの悪意と一緒に捨てなさい」(エフェソ4・31)。他者にも、自分とともにこの地上において、あるがままで生きる権利があることを知るなら、この忍耐強さはいっそう強くなります。

優しさの姿勢 94.愛はことばよりも、むしろ行いによって示されなければならないのです。このように、愛は豊かに実るものであることが余すところなく示されるのです。そして、与える幸せを、また、与え仕えることをひたすら喜びとして、惜しまず限りなく見返りも求めずに身をささげることの尊さと偉大さとを、味わえるようになるのです。

ねたまない 

95.愛によってわたしたちは自分の殻を抜け出すことができますが、ねたみによって自我を中心に据えることになります。真の愛は他者の成功を喜び、それを脅威とは感じず、嫉妬の若い味からわたしたちを解き放ちます。一人ひとりが異なるたまものをもち、それぞれの人生を歩んでいることを受け入れてください。ですから、他者がその人にとっての道を見いだすことを認めつつ、自分にとっての幸福への道を見つけてください。

喜ぶらず、うぬぼれず 

98.キリスト者が、信仰面の養成をあまり受けていない家族、信念が揺れて固まっていない家族とかかわるうえで、こうした姿勢をもって生きることは重要です。時として逆のことが起ります。家族の中で、はるかによく分かっているであろう人が、傲慢で鼻もちならない者となるのです。謙遜の態度はここでは、愛の一面として現れます。相手を理解し、ゆるし、心から相手に仕えることができるようになるためには、傲慢を改め、謙遜さを培うことが不可欠だからです。家族生活の中は、一人の人が他の人を支配するという論理や、だれがもっとも知的で力があるかを見せ合う競争の論理には支配されません。そうした論理は愛をもたらすことがないからです。また、次のような勧めが家族には意義あるものです。「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」(1ペトロ5・5)。

第4章 結婚における愛 2(10月)

思いやり

99.愛することはまた、思いやりのあることを意味します。愛は粗暴には動かず、失礼な振る舞いにはならず、物腰が柔らかなことをいおうとしています。その態度やことばやしぐさは、感じがよく、とげとげしいものでも、固苦しいものでもありません。愛情が深く強ければなおさら、相手の自由を尊重し、相手が心の扉を開くのを待たなければなりません。

100.相手と真に出会う心の準備には、その人に対する思いやりある冷静なまなざしが必要です。それは、自らの劣等意識を埋め合わせるがために、他者の欠点や過ちをあげつらう悲観主義に支配されているならばもてません。思いやりのあるまなざしによって、わたしたちは他者の限界に過度にこだわらなくなり、それを寛容に受け入れ、互いに違う者どうしであっても、共通の目標において一致することができるのです。思いやりのある愛は、きずなを生み、つながりをはぐくみ、新たな融和の網を作り出し、確固とした社会の横糸を構築します。愛の人は、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを語ることができます。

ひたすら惜しまず尽くすこと

102.トマス・アクィナスが説いたように、「愛されることよりは、愛することのほうが相徳に属するものであり、実際に、「愛することにおいてもっとも勝る母親たちは、愛されることよりも愛することをより求めるのです。したがって、愛は正義を超えて突き進み、「何も当てにしないで」(ルカ6.35)、無償であふれ出るものです。他者のために「いのちを捨てる」(ヨハネ15.13)ほどの大きな愛にまで至るのです。無償で与え、最後まで与え尽くすことができるほどのこうした無欲さは、なお可能でしょうか。もちろん、可能です。福音がそれを求めているからです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10.8)

憤怒の鎮静

104.「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいではいけません」(エフェソ4.26)。だから、家の中で仲直りしないまま、一日を終えてはなりません。

ゆるし

106.家族の交わりは、大きな犠牲の精神があってこそ、保たれ、完成されます。

107.必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分のゆるすことです。

108.しかし、こうしたことは、神にゆるされているという経験、自分自身の功績ではなく、無償で義とされた経験を前提とします。

結婚における愛3(11月)

他の人と喜ぶ

110.愛の人は、他者に何か良いことができたり、他の人に何かよいことがあるのを知ると、喜んでそれを味わい、そうすることで神に栄光を帰します。「喜んで与える人を神は愛してくださる」(二コリンと9、7)からです。わたしたちの主は、他者の幸せを喜ぶ人をとりわけ評価しておられます。

すべてを忍ぶ

113.愛し合い、一つに結ばれている夫婦は、互いのことをよくいい、相手の弱さや過ちよりも、よい面について話そうとします。どんなときでも、相手のイメージを傷つけるようなことは口にしません。愛は不完全さ―言い訳―と同居しています。だから愛する人の限界を前にして、口をつぐむことをわきまえるのです。

信頼をもって

115.愛は信頼をもっており、相手を自由にし、すべてをコントロールすることも、所有も支配も放棄します。自主性の働きを可能にするこの自由は、世界へ、新たな経験へと開かれており、関係を豊かなものにし、新たな地平が開かれることのない族内婚とはなりません。だから夫婦は、互いに認め合い、家庭の外で学び受け取ったことを分かち合う喜びを味わえるのです。と同時に、誠実で隠し事がないようになります。なぜなら、他の家族が自分に信頼を置いていることと、本心にある善意を認めてくれているのを分かっているので、隠さずにありのままを出せるからです。

すべてに耐える

119.家庭生活の中で、このような愛の強さを養う必要があります。それは、家庭を脅かす悪と闘うことを可能にする強さです。愛が支配されるのを拒むのは、恨み、人に対する侮辱、傷つけたり人を利用しようとしたりする欲望に対してです。キリスト者の、特に家庭内での理想は、いかなることがあろうとも愛です。

結婚における愛4(2020年1月)

夫婦の愛徳を高める

120 聖パウ口の賛歌は、結婚の秘跡の恵みによって聖化され、豊かにされ、照らされた、夫婦を結び合わせる愛です。それは、「愛情に基づく合一」であり、精神的で献身的なものですが、それには友情の優しさと性愛の情熱が含まれていて、気持ちや情熱が冷めても保ち続けられるものです。
122 限界をもつ二人に、キリストとその教会の間に存在する結びつきを元全に再現しければならないという、とてつもない重荷を負わせてはなりません。結婚はしるしとして、「神のたまものと徐々に一つのものとなりながら、少しずつ進むダイナミックな過程」を意味するからです。
123 夫婦の愛は「最高の友情です」。それは、よい友情の特徴をすべて備えた結びつきです。すなわち、相手の幸福、互恵関係、親密さ、優しさ、確かさ、そして生活をともにすることによって形づくられる友人どうしの似点を求めるものです。

124「永遠の愛を約束することが可能なのは、 わたしたちが自分たちの計画よりも偉大な計画を見いだすからです。この計画がわたしたちを支え、未来のすべてを愛する人にさげることを可能にします。」そのような愛があらゆる試練を乗り越え、何があろうとも忠実を保つためには、それを強め高める恵みのたまものが求められます。
125 結婚は「出産のためだけに制定されたわけではなく」、相互の愛が「秩序正しく表され、育ち、成熟する」ためのものです。「人間的な愛と神からの愛とを併せ持つこのような愛は、細やかな愛情と行動をもって自由に互いを与え合うよう夫婦を導き、彼らの全生活に浸透する」のです。

128 愛の審美的な経験は、相手が病んでいても、年老いていても、感覚に訴える魅力がなく なってしまっても、あるがままのその人をじっくり見つめるなしで表されます。敬意のまなざしは非常に重要で、それを出し惜しむことがしばしば痛みを生みます。ともすれば、夫や妻や子が、大切に思ってほしい、自分を見てほしいと、いかにあれこれていことでしょうか。多くの傷や危機は、わたしたちがそれに目を留めないことに起因します。これが、家庭内で耳にする不満や不服の声に表れているものです。「夫がわたしに構ってくれないのです。あの人にとってわしは透明人間であるかのよう」。「お願いだから、 話をしているときはこちらを見て。「妻はわたしのことを全然見ていない。子どもたちのことしか気にかけていない」。「家では、だれもがわたしに無関心です。まるでわたしが存在しいないかのように、わたしを見ることさえしないのです。愛は目を開かせ、見えるようにしてくれます。何よりも、人間の尊さを見せてくれます。

130 喜びは苦しみの中で新たにされます。「より大きな危険か解解されたときのほうが、はるかに多く喜びます」と聖アウグスティヌスがいったとおりです。ともに苦しみ闘った後で、夫婦は苦労のかいがあったことを知るでしょう。二人は何かしらよいものを得、ともに何かを学んだり、自分たちにあるものをもっと感謝できるようになるかです。人間のささやかな喜びは、愛し合う二人が精一杯力を合わせなければ手にできないものを協力して得たときに、深く、心躍るものとなります。

結婚における愛5(2020年2月)

表され成長する愛

133.家族の間で 「三つのことばを使わなければなりません。三つのことばは、いいですか、ありがとう、ごめんなさい、です。家族の中で、勝手に振る舞わずに『いいですか』といい、利己的にならずに『ありがとう』といい、間違ったことをしたことを認めて『ごめんなさい』というとき、そのような家族のうちには平和と喜びがあります」。これらのことばを使うのを渋ってはなりません。来る日も来る日も、たっぷりと三つのことばを繰り返しましょう。なぜなら、「場合によって無言は、家庭内において、夫婦間、親子間、兄弟姉妹間でも、時に圧迫を与えることがある」からです。そうではなく、使うべき場面で発するふさわしいことばは、日ごとに愛を守り養います。
134.愛の実に格別な形態である結婚は、持続的な成熟に招かれています。成長しない愛は危険にさらされるようになります。わたしたちは、もっとたびたびの、もっと懸命な、もっと惜しみない、もっと優しく、もっとほがらかな、心ある行為をもって、さらに愛を実践することで神の恵みにこたえ、そうして初めて成長できるのです。

 

対話

136.対話は、夫婦生活と家庭生活において、愛を味わい、表現し、成熟させるための、格別で不可欠なものです。ですがそれには、 長く、骨の折れる訓練が求められます。男と女、大人と子どもではコミュニケーションのとり方が異なり、別様のことば遣いをしていて、それぞれの行動基準があります。

137.時間、質の高い時間が必要です。辛抱強く、注意深く、相手がいいたいことのすべてをいい終わるまで耳を傾けることです。多くの場合、夫婦の一方が必要としているのは、抱えている問題の解決ではなく、聞いてもらうことなのです。自分の苦悩、失望、恐れ、怒り、希望、夢を分かってもらえたと思えればいいのです。

138. 真に相子を重んじる習慣を身に着けください。このことは、その人の人格を認め、その人が生きていて、その人なりに考え、幸せである権利があることを認めこととかかわっています。相手の立場になって真意をくみ取り、その人の心を揺さぶるものを見定め、そこを対話の出発点にしなければなりません。

139.つまらない考えにこだわって自分を閉ざしてしまわない心の広さと、自身の考えを変更し広げていく柔軟性が必要です。よくない感情がわき上がってきそうなことに気づいたら、コミュニケーションを危うくすることのないよう、それを相対的に見るようにしてください。相手を傷つけずに、思っていることを表現する力が大切です。

140.相手に対する思いやりある言動と、愛情表現が必要です。愛は最悪の障害をも乗り越え ます。だれかを愛せいるときや、だれかから愛されていると感じられているときには、その人が何を伝えようとしているのか、何を分かってもらおうとしているのかを、よく理解できます。

141.終わりに、対話が実りあるものとなるには、語るに足ることをもっていなければならず、それには読書、内省、祈り、そして社会に開かれていることで培われる内的豊かさが必要だということを心得ておきましょう。

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